相田みつをさんの「道」と題する詩に次のようにあります。
長い人生にはなあ 
どんなに避けようとしても 
どうしても通らなければ 
ならぬ道というものがあるだな 
そんなときはその道を 黙って歩くことだな 
愚痴や弱音を吐かないでな 黙って歩くんだよ 
ただ黙って 涙なんかみせちゃダメだぜ 
そしてなあ そのときなんだよ 
人間としての いのちの根が ふかくなるのは
みつお
 禅の言葉に「道環(どうかん)」とあります。「道」の反対語は「路地」、「路地」は行き着くところが見えるが、「道」は果てしなく続く。と言ったのはどなただったか。一生修行と言いますが、道を修行となぞら準えれば、禅の坊主に限らず、どなた様も人生修行途上にあるものでしょう。道環の環とは輪の事ですから、切れ目無くどこまでも続いて行くのですね。その輪の中にいのちの根の毛根が少しずつでも伸長すればそれはそれ。四の五の言わずに道は黙って歩くべし!と詩にあります。黙って歩くのにもただ漠然と歩くのでは甚だ心もとない。そこで頼りになるのは次のお三方。歩みの先生はもちろんお釈迦様(仏)ですが、歩みの杖となるのは仏様の教え(法)、そして最後に大切なのは教えを学ぶお仲間(僧伽※の皆さん)ということになります。                   
 ※僧伽(サンガ)−仏の教えを学ぶ出家在家を超えた仲間の事
 学び方には様々な形があると思います。例えば坐禅を体験してみる、お経を聞いてみたい、唱えてみたい。お茶をのみながらじっくりと語り合ってみたい、時にはお酒を酌み交わしながら・・。
滞在型の禅の体験や修行は、それらの様々な学びを可能にしてくれるものでしょう。週末を利用して自分を見つめ直す修行をしてみる、御仏にすべてをお任せする心地よさを体験してみる。少しだけお坊さんの修行を真似てみる。心が落ち着くまでお寺に居たい。
『其中庵(ごちゅうあん)』と名付けました。放浪の詩人種田山頭火が、憧れをもって理想とした庵の名前です。観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぼんというお経の中の「其中一人作善唱言ごちゅういちにんさぜんしょうごん」からとった二文字で、災難や苦難にあったときにその中の一人が「南無観世音菩薩」と唱えると観音様は直ちに救いの手を差し伸べられるという意味があります。庵主の裕好師が其中一人なのか、はたまた集まる皆様がそうなのか、其中・・ではなく互中・・ではないのか?
いかがでしょう、共に学びあう場として、親しく禅の生活に身を置いてみませんか。問い合わせをお待ちしております。
プレオープン 2007.12〜2008.4
オープン   2009.5月より

山頭火の草庵は、友人達の援助によって屋根が葺かれ、家財道具を持ち寄った善意の庵だったようです。その庵の入り口には“庵主の願い”が掛けられていたとの事です。

一、 甘いもの好きは甘いものを辛いもの好きは辛いものを持参せらるゝならば
一、 うたふもをどるも勝手なれどいつも春風秋水のすなほさを失はないならば
一、 気取らずふせらずみんないっしょに其中一人のこころを持たるならばどんなにうれしからう

 ドイツローマン街道、ローデンブルクの古城の城壁にはドイツ語で次のように刻まれているそうです。
「訪れる者には安らぎを 去りゆく者には無事つつがなきを」「歩み入る者には安らぎを」の訳詩もあると言います。仏の道を志す者の願いに“無財の七施”があります。お財布がなくてもできる他人への施しを七つ挙げますが、その中にある“房舎施”は、来客をあたたかく迎えたり、人に住む場所を提供することを言います。
ところで、以前放映されていたNHK朝の連続テレビ小説“どんど晴れ”はご覧になった方も多いかと思います。この番組のキーワードは“おもてなし”。舞台になった盛岡の老舗旅館 加賀美屋 の玄関を入るとまず目にするのが「来者如帰」(来る者帰るが如し)という大きな扁額でした。主人公の夏美の説明によれば、お客さまがまさにご自宅に帰ったがごとく寛いで頂けるおもてなしを!というものでした。
ここで『其中庵ごちゅうあん』、お寺の宿坊ですから一泊何万円の老舗旅館と同じ土俵に立つわけにはいきませんが、お迎えする心・・・・・・だけは一流旅館?。ただ、「ただいま!」と帰る場所が、「本当の自分・・・・・」といえるご自宅だといいのですが。