【解説】 坐禅の坐の字は、通常まだ(れ(のない坐を使います。座は場所を示し、坐は姿を表すのがその理由とされます。ところで、この字をよくよく見てみますと、土の上に壁に向き合う人が二人、ただ左右の人は他人ではなく、それぞれが自分の中の人であるところに坐禅である意味があります。つまり右側にある人の字は自我であり、左側が自己と見ます。「おれがおれがのが(を捨てておかげおかげのげ()で生きる」という古歌がありますが、子があり、財があるからまずは安心と考えるのは、が我で見たモノサシ、それに対して自己とは、無我、我が無くなった状態で見た真の自己を言います。「われという小さいものを捨ててみよ、三千世界わが身なり」三千世界とは全宇宙を言いますが、坐禅は、その自我と自己を対峙させたところに、我を取り去った天地いっぱいの自分を感じる事なのだと思います。そうしたところに仏のモノサシという目で見た本当の姿、ありのままの姿が見えてくるのではないでしょうか。「我(が稼いだ」「我(が育てた」と人は言います。しかしながら自分の命一つ思うようにならないのだから、自分の物などというものは何一つないというのが私達の存在です。あえて自分の物になると言えば、よく調えられた私達の心だけだとお釈迦様はお伝えです。
おのれこそ おのれのよるべ
よくとぎすまされし
おのれこそ おのれのよるべ
よく調えられ、よくとぎすまされたところでこそ、はじめて確かな救いに出遭うことができるということだと思います。 |