【解説】
 先日の事です。長らく故郷を離れ、東京に出ていた檀家さんが実の母親の葬儀の喪主を務める為に帰郷されました。実際母親の介護をしていたのは、その方の弟さんで、結婚もしていませんでしたので一人で面倒を見て居たということです。さて、東京帰りの喪主さんが挨拶に見えられ、開口一番、「私は東京のお寺で何年も坐禅をしています。また梅花講に所属し、御詠歌の大会には毎年欠かさず参加しています。本山での摂心にも参加いたしました」との事、同席した私やわざわざついて来てくれた世話人さんに何が言いたいのかとても疑問を感じました。
 坐禅をするのも、また御詠歌を唱えるのも、そこに求める心・・・・があってのことでしょう。ただその求める方向がずれてしまえば、たとえどんなに熱心に坐禅をしても、偉い老師さんに教えを受けても残念ながら何にもなりません。
 求める先を考える時、それはご自分の心を訪ねる事の他、行き着く場所はないものと思います。
 ご自分のが我や執着に導かれた求める心・・・・であったり、他人に誇り、自分の優位性を確かめる為の坐禅であったのなら、同じ求める心であっても、真剣に道を求める心、ぐどうしん求道心とは言えません。味を知れば知るほどお裾分けをして人にも勧めたくなる、そしてその機縁の熟す時を待つ。そのような心こそ求道心からの本当のはたらき・・・・と言えるのではないでしょうか。

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