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| 【解説】 “門松は冥土の途の一里塚目出たくもあり目出たくもなし”世間では誰もが正月気分で浮かれている時期に、かの一休禅師がシャレコウベを高く掲げながら町を流し歩き、この警句を唱えたのだそうです。あの頓知で聞こえた一休さんが、なぜこのように人に疎まれるような行動をとったのでしょうか。 おそらくは、何時までも正月だなどと浮かれていると足元をすくわれるぞといったところなのでしょうが、それよりも、正月だ、誕生日だなどといって特別な時間のような気分を味わってはいても、それは日常と言う連続性の一コマでしかない。またその一コマ一コマを大事に大切に過ごす事ができる今こそが本当の意味で目出度いといったものなのかもしれません。 仏教では、正しく生きるということを、今なすべきことをよく知り、それをきちんとやることだと考えます。ただただ目の前にあるするべきことをするだけ、それが出来ないのは、過去を振り返ったり、先のことを心配したりと「今、ここ」に生きる事が難しいからなのでしょう。とは言え、考え方としては納得しながらもあまりに漠然として実践としてどうすればいいのかが見えずらいような気がします。 スリランカ仏教会の長老アルボムッレ・スマナサーラ師は、その具体的な方法として、私達の仕事や生活をきめ細かく「ユニットごとにカット」することと示されます。今、本を読むとしたら本を読むことに徹する、その時に夕食はどうしようかとか、あの人に手紙を書かなければなどと余計なことを考えない。本を読むときには読むことに徹する、買い物に行けば買い物に徹する、それが終われば料理にとすべてをユニットとして切り取り徹する事で、ものごとを巧みに処することができるようになると教えられます。忙しさを嘆く人はユニットとして整理できずに雑事に混乱して心が落ち着かないだけなのだそうです。 お釈迦様は、「より善き人とは今行っている事について正しく気づいている人だ」とされます。「正しく気づく」とは自分が今行っている「今、ここ」にいつも目覚めていると言う事だと思います。 僧堂では、「今、ここ」が抜け落ちる事を「一足が抜けている」と言います。一歩一歩の歩みを確実に進める一年としたいものでございます。 |