8月9日(水) −サラリーマンが仏様の弟子になった日−
 得度式から二週間が経ち、剃髪した自分の頭にもようやく親しみを感じるようになりました。
 剃髪する前はもちろん一抹の不安がない訳ではありませんでしたが、実際にまるい頭を見ても特段気持ちの動揺が無いのが不思議なくらいです。
 今までを振り返ってみてもそうですが、不安に思っていることも案外過ぎてみれば取り越し苦労だったという事が多かったような気がします。
 さて、得度とは何か?と思う人も沢山いると思いますので説明を少し。(あくまで自分流に勝手に理解)
 仏の弟子になるには、十六の戒律がありそれを守る事を約束するところから始まります。その中の三つの誓い(三聚浄戒)は、
@、 一切の悪い事は致しません。A、一切の善い行いを誓って致します。B、全ての人々の為、社会のために尽くす事を誓います。そんな当たり前の事をいまさらと感じるかもしれませんが、それがなかなか出来ないもので…。
 子供の頃「嘘をつくなよ!」「悪い事をしてはダメ!」と教えられた事も、年齢を重ねまた社会的な経験を積み重ねるごとに、本来の姿から離れ自分流の理解へと少しづつ変化してしまいました。(勿論、それを決める基準は自分の中にあるわけですから変わり方も自分次第)とにかくも、善悪の行いを改めて見直す事ができたのも得度式のご利益?か。つまり得度によって変わるのは、頭の形という見えるものだけではなくやはり意識そのものの変革を呼び起こすアクションでもあります。また得度式を行えば、得度=剃髪→出家修行以外の選択肢がないわけではない事も初めて知りました。(得度にも種類があり 在家or出家 得度をしたなら、必ず髪を剃り僧侶の修行をしなければならないというわけではない)
 在家のままで得度というアクションを起こし、今までの自分の歩んだ道を見つめ直す。そこに「清く正しくありのままに生きたい」という見つめ直す先を方向付けるのも一つの形なのかもしれません。
 キッカケとかケジメという理由付けがないと自分を律する志を持ちえない私は、気付くのが少し遅かったのかもしれません。でも仏様とのご縁をしっかりと頂いた今、何も迷う事はありません。仏様の教えに沿った行いを真似れば何も間違いはないのですから・・・・
 連日のように報じられる様々な争いごと、傷害、殺人、自殺等々、何十億年と引き継がれてきた“いのち”の大切さ、また自然のあらゆる恵みの中で“生かされている”事実を理解すれば、耳をふさぎ、目を覆いたくなるような出来事は起きないはずです。
 理想論と現実の違いは十分判っているつもりでし。常に戒律を意識して生活する事はあまりに難しく、世の中の流れに任せて生きてゆく事のほうがいかに楽かわかりません。
 そんな現実の狭間にあって、人が生まれながらにして持つ「生・老・病・死」の四つの苦しみを受け入れながら、尚もより良く生きる術を学ぶ入口として得度があると今の私は考えています。
 多忙な毎日、でもチョッと深呼吸。深呼吸の仕方を忘れてはいませんか?心静かに自分を見つめ直す時間を持つ、キッカケはこころ柔らかく、ケジメはこころまん丸くすることで見つけることができそうです。