梅雨と聞けば、毎日雨ばかりで気持ちまで湿りがち、あまり好きな季節ではないと感じているのは、私だけではないでしょう。
お釈迦様ご修行の地インドでも、5月から8月にかけては雨季にあたり、遊行(一所に定住せずに方々を巡り歩く)生活を基本とする出家者の修行方法も精舎と呼ばれる僧院に定住し、瞑想をするのが主になっていたようです。雨により外を歩きずらいという事もあったでしょうが、もっと大切な理由が他にありました。雨が降り続くといかにもうっとうしいのは前述の通りですが、一方、植物や他の生き物にとっては生育や活動の為の絶好の季節です。お釈迦様は、その芽生えたいのちを、その上を歩く事によって無駄な殺生をしたくないという慈悲あふれたお心を持たれてその戒律をお決めになられたのです。
行脚僧が、地面を錫杖で撞きながら歩くのも、通る事を事前に知らせ、虫たちを逃がしながら歩を進め、無駄な殺生をしないという事で、同様の意味合いを持ちます。
 とかく私達は、まず自分の生活の利便性を最重要視したところから物事を考えてしまいますので、梅雨=嫌い、煩わしいという図式が生まれます。ところがちょっと昔を顧みると、同じ人間である我々の先祖の意識には、まずは第一に大いなる自然が根底にあって、その恵みをいただく生き物や植物が存在し、また、それらすべてには様々な精霊が宿っているといった土着の共生の感覚が根底にあったのです。ですから、あくまで、自然の変化に包まれる生活という感覚で生活をしておりました。そして、それと付随して当然、物のいのちへの崇高な感謝の念を持っておりました。
 つい最近まで、高度な文明により、科学を絶対視する意識が、世の中全体を支配しておりました。しかし、最近ではその傾向も徐々に崩れつつあるようです。そこで、人間が本来持っていたネイティブな目に見えぬ物への畏敬や、決してはかりにかけられない物のいのちの重さ といった事をあらためて考え直す時期が来ているような気がします。梅雨の季節、生き物のいのち輝くこの好時期に、物のいのちの大切さ、また、そのいのちを頂いて、言葉を変えれば、その犠牲の上に成り立つこの私たちのいのちの意味を、感謝の心を、あらためて、考えてみては如何でしょうか。