「無功徳」と聞くと大方の反応は「じゃあ何の為」と言ったところでしょうか、
縁起物として親しみがある達磨様は、実は高名な僧侶で、千五百年ほど前に仏教をインドから中国に伝えられた立役者、特に坐禅を専らとしましたので、現在は禅宗の初祖とされております。達磨様に関しては、謎も多く、幾つかの逸話が伝えられておりますが、その中に、この「無功徳」が出てまいります。中国は梁の時代、熱心に坐禅修行をされていた達磨様に当時の皇帝 武帝は質問いたします。「私は即位してこのかた、寺を建て、多くの寄付をして、仏教を保護してきた。どのような功徳があるだろうか」と、曰く「無功徳」「まったく功徳はありませんよ、」と応えます。おそらくは、達磨様も仏教外護に対する皇帝の功績は十分認めながらも、いわゆるギブアンドテイク的な功徳の否定、お金持ちだけができる事が功徳ではないんですよ、我を立てた寄進は本当の意味での布施にはならないのですよという事を伝えたかったのでしょう。
ここで、書き始めの「じゃあ何の為」の疑問符に戻る訳ですが、古い経典に「仏にあいたてまつることを得ること難きは優曇波羅(うどんはら)の華のごとく、また一眼の亀の、浮木の孔にあうがごとし」とあります。優曇波羅という三千年に一度咲くと言われる伝説の華が咲き、一眼の亀が、百年に一度だけ水面に顔を出し、孔の開いた流木に頭がすっぽり入る確率、それぞれ仏に出会える機会の稀少性をあらわす例えであります。また、道元禅師の言葉にも簡潔に、「人身得(にんしんう)る事難(かた)し、仏法値(お)ふ事希(まれ)なり」とあります。仏様のおしえに出会う事は、人としてのこの身体を得る事と同じように極めて稀な事なのですよ、仏教では何れも「難値難遇(なんちなんぐう)」という言葉で示されますが、つまり、目先の現実的な利益を与えられるのが功徳ではなく、仏法に触れる事ができた事自体がすでに稀有な功徳であり、無常を知り、無我を明らめる事で、人生そのものを根底より考える縁を頂いた事が何よりの妙功徳(この上ない功徳)なのですよ。とお伝えなのではないでしょうか。「禅問答」と言うと、判り難さの代名詞、のような言われ方をしますが、確かに、言葉少なに、核心をつき、自らに回答を課す事が、難解だと言われればその通り。しかしながら、つまりはご自身の気付きを促すはたらきかけを示すのが、禅の特徴とも言えます。心理学者 河合隼雄氏は、「心の問題の最終的な解決は、本人の治癒力に任せるしかない、私はただうなずいて聞いているだけです。」とおっしゃいます。治験者は、心の問題の専門家に話を聞いてもらうという安心を得、それだけで心を解放するのでしょう。禅は、そこに、「きっかけ」としての一語を示します。手法としてはむしろおせっかいなほどの親切心さえ感じますが?
さしずめ道元禅師であれば、有功徳(出会いが即ち所有の自覚)非功徳(功徳などと言っている事もない)等とお答えになられるのではないかと…
勝手な事を言っておこられそうです。このあたりで、功徳の押し売りも終いと致しましょう。
03.10.5達磨忌 正貴記す