 |
釈尊が難行苦行を棄て、坐禅修行に入られたのが十二月一日だったと言われます。そして八日明けの明星の頃、遂にお悟りの境涯にたどり着かれました。古来より禅宗寺院ではこの八日間を「接心」と称して坐禅集中修行を致します。当仙林寺でも期間中、坐禅会会員が中心となって毎日坐禅修行を行いご遺徳をお慕い申し上げます。
ところで、釈尊お悟りの瞬間を「降魔成道(ごうまじょうどう)」と言いますが、それは次に挙げる説話によるものです。
「正覚を得るまで坐を立たぬ」との決意で坐禅をする釈尊に、魔王(天魔波旬)は数々の妨害を企てます。まず、美しい三人の娘を差し向けて、色欲により誘惑を試みますが、釈尊に近づくやいなやその容姿はたちまち朽ちた姿へと変わってゆく、次に凡夫の最も欲するところ、富、名声、権力、望むものは何でも叶えようという申し出もあっさり拒否、最期に魔王は軍隊を送り込み調伏しようと攻撃するも、刀は折れ矢も届かずの様子だったとあります。釈尊にまつわる説話は、その内面を読み解くのが必定、魔王もいわゆる諸悪趣を擬人化したもの、つまりはいかに釈尊といえどもこころの葛藤があり、その様子を表すすべとして後に伝えられたものなのでしょう。道元禅師も、相手が参学の高流※1とみると「発菩提心(ほつぼだいしん)を百千万発するなり」と、たとえ菩提心(仏のおしえに近づこうとする心)を起こしても、百千万回も魔王による誘惑がある。繰り返し発心(ほっしん)することの大切さを説き、また一度その心を起こせば何度でもやり直す機会はあるのですよ!と教えと言うよりはむしろ老婆心的慈悲心さえ感じます。また、「悪魔」「邪魔」「魔が差す」「好事魔多し」など日常使われる「魔」の用法をみても、例えば仕事など順調に事が進んでいるような時ほど、天魔出現の機会もより一層増えるようですし、我々普段の生活でも天魔の誘いはことのほか多いことに気付かされます。特に私共禅門にある者は、日蓮上人あたりから言わせると禅天魔※2なのだそうで、一段と心して掛からなくてはならないのでしょうか…?それはともかくこの娑婆世界を生きる以上、どなたであっても心の隙間に生じる「魔道」を歩まぬよう、甘い誘い「魔障」にとりあわない信心を持てるよう、常に心のリセット(正念)※3を心掛けたいものであります。
「泥多ければ仏大なり」不思議な言葉に聞こえるかもしれませんが、つまり肝心なのは天魔との遭遇を気付く機会を増やす事、そして誘惑の非を懺悔し諦める(あきらかにする)事と言えそうです。お足元お気をつけ下さいますように… |
| 03.12.02正貴記す |
| 以下、恐ろしき魔王を列記しておきます。ご参考まで |
|
四魔 |
煩悩魔 |
貪り、怒り、愚かさ |
|
|
陰魔 |
心と身体の働きによる肉体 |
|
|
死魔 |
人の寿命をうばう死 |
|
|
他化自在天魔 |
第六天の天魔※4が心身を乱す |
|
|
 |
|
|
| ※1 |
禅師は、真剣に仏道修行を志す者に対しては、最大限の尊敬を込めてこの呼称を使われた |
| ※2 |
現在の禅宗教団、臨済、黄檗、曹洞ではなく、当時禅宗を名乗っていた日本達磨宗を攻撃した表現という説もある |
| ※3 |
釈尊の悟りで、苦からの解脱方法として説かれる「八正道」の一つ、真実の心を念じ、忘れないという意味 |
| ※4 |
常に多くの眷属(ケンゾク)をひきいて人間界において仏道のさまたげをする天魔といわれるが、煩悩魔、陰魔、死魔以外の心の葛
藤からくる魔と思われる |
|