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―道元禅師と時間―
彼の岸(悟りの岸)「彼岸」の考えは、お隣中国から渡来の考えで、現在の日本での行事の様子は、太陽をカミと捉えた思想が潤滑材となった結果と思われます。
さて、七日間のお彼岸中、ちょうど真ん中に当たるのが文字通りお中日で、
二十四節気で言えば、春分の日、昼と夜の長さが同じになる日、太陽が真西に沈む日、とはお天気ニュースでもお馴染みのフレーズです。
仏教では西方に浄土がある(西方浄土)との考えと相俟って、彼岸の中でもこの「お中日」を最も大切な日と位置付けるようです。この日は毎年、境内が線香の煙で霞がかかる賑わいです。
ところで、真ん中と言えば、昼と夜の真ん中を考えるとどうでしょうか、せいぜい夕方?という感じでしょうか、
同じように時間の経過を見た場合、過去と未来の真ん中は?、こちらは明快、「現在」となります。
一方、道元禅師が考える時間はもっと実際的です。過去とは、あくまで私の記憶という名目上の過去であり、いわんや未来とはやはり観念上のものとお示しです。
「じゃあ、昨日の私は何だったの?」との疑問もありましょうが、昨日の私は昨日と名付けたやはり現在の私…。
禅師の時間観に「有時(うじ)」があります。存在と時間という意味で、例えば、過去の認識(存在)は、「あの時〜をした」(時間)という経過を今現在思いだしているだけであり、つまりは、今、今、経過の中での過去で、未来も、今、今、つながりの中の未来と考えます。全ては今、今、今、の連続で、またその今の事を、特に「而今(にこん)」と表現します。
過去という名の「而今」、未来というところの「而今」、すべては「而今」それ一つに含まれてしまうという事でしょうか。
「尽界にあらゆる尽有はつらなりながら時時なり」
時間の経過にともない現れる世界の存在は、それぞれが過去にあったもの、未来に見えるものという経過の存在認識と見えてしまうのが常套でしょうが、それは、実はその時、時の存在そのものと捉えたいものだという意味でしょうか。
「無常迅速」あっという間に過ぎ去ってしまいます。今を大切に…! |
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