先日、ある研修会の折、「僧侶としての自覚」副題「どんな心を持った人を僧侶と呼ぶのか」「具体的に何をする人なのか」という趣旨に沿い、二分程度の発表をする機会を頂きました。二十名程の参加者の中には、これまでの経験から自戒の念しかり、現在の教化実践状況、これから如何に在りたいかの理想論等々、表題とは若干逸れ気味の感はあったものの、概ね他山の様子を知る事が出来、今を生きる苦悶する僧侶の姿を、鏡に映る我が姿を見る思いで、それぞれの心からの発露を有難く拝聴いたしました。
ここで、私もこの自己啓発プログラムに乗じて一言。
僧侶とは、言わずもがな出家、出家とは出世間の事、とは言え、現実は私も含めて、ほとんどが寺に生まれ育ち、所謂、本当の意味で発心し、在家より仏門を目指した出家者は、大変少ないのが現状です。
只、順序としては若干不遜の感を拭えませんが、本山でのご修行を機縁としての発心の発露、また、実際に檀家様との関わりの中での僧侶としての自覚を覚触したという方も多々あることも事実でしょう。『発心正からざれば万行むなしく施す』
次に、仏教の大根底「三学(戒、定、慧)」に照らして、現在の生活を見ますと、仏教徒として、特に僧籍に在る者が守るべき戒律(より良き生活をおくる為の方向性を示す)では、世間で暮らす出世間の身にはいささか辛い部分が多いのですが、つまりは、水を口にすること一つとっても、不殺生戒を犯している事実があります。例えば、罪の意識を持ちながら、懺悔(さんげ)の日送りを心掛ける以外に、現状を納得するすべが見当たらない状態なのでしょうか。
また、定とは、禅定つまり、曹洞宗においては、坐禅によるシフトと受け止めれば、勿論日々の坐禅修行は絶対に外せません。
そして、この禅定の滞らぬ実践により、世間のものさしではない、出世間のものさし智慧の発現(ほつげん)へのあこがれを始終充満させ、同事意識からの自由なこだわりなき心(様々な問題(苦しみ)に応じての同悲の心)を持ち、自在なはたらきを現わせるのが僧侶と言えましょうか。『観自在菩薩行深般若波羅蜜』

―ある日、檀家のAさんから、相談を受けました。「何で私はこんなにいい加減なのだろうかと・・」
―「いい加減を悩むあなたはすでにいい加減(中途半端)ではなく、また、仏教においていい加減という言葉は、いいころあい、つまり、極端に走ること無い、中道ともとれます、お釈迦様が示す、最高のライフスタイルです。」
要は、仏のものさしをあてがってあげる事が、安心(あんじん)の足がかりになるのでしょう。