〜太鼓開眼式に臨んで〜
 「仏作って魂いれず」「画竜点睛を欠く」等と言う言い回しがあります通り、仏様に関わるもの、例えば、仏像、仏壇、墓石、位牌等々、に魂を込めなければ、それぞれ、只の彫り物、木の箱、石の塊、木の板でしかないということでしょう。
 では、この魂を込める、眼を入れるとはどういうことかと言いますと、本来の意味合いは、僧侶の修行力で、仏と一体になり、対象物にその心を振り向けるということになります。判りやすく言いますと、つまりは、皆様と仏様、ご先祖様を、私が仲介の導師となって、ご縁つなぎをさせて頂くことと言えましょうか。
この度の、開眼式も単に、太鼓の打ち初めの為の、セレモニーではありません。千載一隅の仏の教えに目覚める機会を与えられた大切なご縁と捉えることが大切なのでしょう。
 それではこれから、太鼓の中に仏の教えを探して見たいと思います。が、その前に太鼓とお寺との関係をお話いたしますと、これが大変重要な役割を担っております。禅の修業道場には、時計というものがあまり見当たりません。しかしながら、分単位の修行は毎日寸分違わぬ正確さで行じられます。では、どうやって、時間を知るのかと言いますと、それには、鳴らし物を使います。それがつまりは、様々な鐘や太鼓であり、その鳴らし方により、時を知る事が出来るわけです。
 禅寺の本堂に行きますと、必ず木版という五角形の板の鳴らし物があります。ここに書かれている文言は、概ね決まって、無常迅速 生死事大 各宜醒覚 慎勿放逸 とあります。人の世はあっという間です。人の生き死には一大事です。皆さん心の目を見開いて下さい。時間を無駄に過ごしてはいけません。という意味でしょうか。
私達は、いま聞いた話は、なるほどと、頷けるのですが、すぐに忘れてしまします。先人達はその辺りの事を良く心得ていて、修行僧の一番眼に触れやすい場所に、仏教の最も肝心な教えを書きしたためたのでしょう。
 また、これから、太鼓を打ち初めして頂くわけですが、その皮の張り方も、張りすぎてもいけない、緩くても音が悪い、丁度良いころあいが大切なのでしょう。私達の心持もその様です。気が張りすぎても長続きしない、緩めすぎれば気の緩みの際限がありません。お釈迦様はこの辺りのこころのあり方を、中道という言葉で説かれます。いい塩梅ともいえましょう。
この塩梅という言葉。塩と梅酢の割合が料理の味を決めるという意味にその語源があるようですが、折角良い素材を使っても、その塩梅しだいでは、高級料理にも、猫またぎにもなってしまうのでしょう。人の有り様も同じこと、頑固すぎれば融通が利かず、人は寄り付きませんし、柔らかすぎても優柔不断で人が離れてゆくのでしょう。私達も心の塩梅を良いころあいに保つ努力が必要なようです。