散った葉を、景色として取り込む心は、洋の東西を問わずとはいかないようです。西洋では、枯葉をシャベルで集めるのだそうで、文化の違いとはいえ、寂しい感じが致します。一方我が国では、「落葉掃き」の言葉通り、箒で掃き清め、「落葉焚き」で風情を味わい、焼き芋の付加価値も…。単なるゴミという扱いで終えない感受性が残っております。また、「落葉衣」「落葉船」等の表現を見ても、その余韻までも風情として頂く心を持ち合わせます。いつまでも伝えてゆきたい日本人としての感性と思いますが、如何でしょう。
 ところで、秋、落葉と言えば、紅葉を連想される方が多いのではないでしょうか、かの良寛様は、ご自分の終焉を散り行く紅葉に載せてその心を詠まれます。貞心尼との最後のやりとりの中で、
     生き死にの境離れて住む身にも
     さらぬ別れのあるぞ悲しき   貞心尼
     うらを見せおもてを見せて散る紅葉  良寛
 諸行無常の理を知る出家の身でありながら、やはりこの様な別れは悲しいものでございます。 貞心尼
 この身さえ、自然の様相以外の何物でもない。まさに、ありのままの姿を見せたもみじ葉そのものなのですよ。 良寛
 出世間でありながら、いざとなれば世間の身離れられず、その境涯を吐露した貞心尼への返歌の中で、終の身を持って自然の真理との整合性をお伝えになられたのでしょうか、
 ところで、もみじの木は、その寿命が尽きる年、沢山のプロペラ状の種をつけ子孫を残す事が知られております。当山の枯れた古木などは、それだけで終わらず、倒木した身の残りの養分を茸(ひらたけ)に布施します。私もその布施の恩恵を有難く頂きました。朽ちてからは、最後の命を昆虫の棲み家として、また、餌として布施致します。つまり放っておけば後に残るものは何もなく、土に帰るばかりです。いのちの役割を果たし切った生き方であり、実に見事な最後を遂げます。
 また、今年の暑さがこたえたのは人間だけではなかったようで、境内の様々な木々の体力も大分弱り気味でした。その中でも暑さが苦手なハンカチの木は、かなり堪えていたようです。しかしながら、青々と繁った葉を自分ですべて落としながらも、一つだけつけた実を、身を挺して守ろうとするのです。
 植物の世界でさえこの様です。人の旅立ちであれば尚の事、そこには必ず大きな「教えとしての種」を残して居られるはずです。命を賭して与えられた種を、ご縁として発芽させるのは私達の心がけ次第、受け止める蒔き床の質が問われます。土壌改良の機会も一つのご縁でしょうか。