正月、元旦の事を俳句の言葉で「鶏旦」と言うのだそうです。
蘇州、高青邱の詩「鶏鳴一たび旦を警(いまし)む」からとったものと思います。
朝の静寂を破る鶏鳴の一鳴きを、旦、つまりその日の始まりに我が身を振り返る警鐘として心に留めるという意味でしょうか。
一年の始まり「鶏旦」にねらいを定め、その年一年、怠ることなく我が身を整える戒めを旦旦(毎日、毎日、朝な朝な)として、鶏の一鳴きに心したいものでございます。
また、この「旦」の字を見るとどうしても思い出してしまうのが、修行の地、永平寺の旦過寮、元々は、行脚僧が午後から朝までを過ごす宿坊という意味から付いた名称との事ですが、現在の永平寺では、本山での修行の基礎を学ぶ場所であり、指導の役に当たる旦過寮係(たんがりょうけい)と呼ばれる古参和尚からみっちりと所作を叩き込まれる場所でもあります。また、同時にここでの生活は、娑婆での学歴、知識、経験等々、およそ履歴と呼ばれる物々は、一切役に立たない事を知らしめる結界をも意味します。知らず知らずに作り上げてきた二十数年の個性と言う名の「我」を徹底的に取り除かれるわけです。もっとも、強制的に空っぽにされる事がなければ、これから訪れる膨大な記憶すべき事柄や、修行そのものを素直に受け入れられない現実があったのです。
 日中の坐禅三昧、修行基礎の指導を一週間から十日程受けるといよいよ「仮入堂(かりにゅうどう)」修行僧の仲間入りとなるわけです。各寮への挨拶周りなど一定の行事を終えると、指導の役に当たった古参和尚より、本当に同じ人?と思うほど穏やかな雰囲気の中、羊羹と、お茶が振舞われます。
それまでの生活で経験した事のない体力、知力の極端な消耗、ほんの一刻ですが、極度の緊張感からの開放。この羊羹の美味しさが未だに忘れられません。否これからも忘れる事は出来ないでしょう。
嗜好や、味覚など、瞬間で変わるものではないという固定観念が打ち破られた瞬間でした。
同じように、私達が個性とよんで、後生大事に守り続けている拘りも実は、状況次第でいくらでも変わる事が出来る幻想と禅では考えております。
諸行(あらゆるもの)は、無常(移り行くもの)である以上、私達が「こうあるべき」とする個性そのものの変化を柔軟に受容すべきなのでしょう。
とかく、思うようにならない事多き世の中、対象の変容を促すのが容易でない現実がある以上、「個性など作られた幻影、いくらでも変われるもの」と、むしろこちらの認識を新たにするほうが、問題解決のより効率的な対処法と言えるのかもしれません。
年の初めにあたり、今年こそはと招福を望み、神仏に願をかけるのも勿論宜しいのでしょうが、今年はむしろ一歩進んで、人事を尽くし一陽来福を待つ時節、積極的な待ちに転じては如何でしょうか。
鶏鳴として我が身に照らすべく鶏旦に一言申し述べました。ともあれ皆々様の万福多幸を節にお祈り致します。