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今月二月は、お釈迦様涅槃の月でございます。およそ二千五百年前の二月十五日のことです。死期を予感された釈尊は、クシナガラの沙羅樹林に辿り着かれると、二本の二股に分かれた沙羅の木の間に枕を北に右脇を下にして足に足を重ね静かに横たわります。すると沙羅の木は時ならぬ花をつけ、その花びらが降り注いだと言われます。現在の葬儀に見られる北枕、四華花は、この時の逸話に由来します。
全国の多くの寺院では、毎年十四日になると、お釈迦様入滅の様子を伝える涅槃図が掛けられ、翌十五日にはご遺徳を偲ぶ涅槃会が行われます。私の寺でも例年、寺子屋の子供達が作った涅槃団子をお供えし、梅花講の講員さん達と共に法要を営みます。ところでこの涅槃の言葉には、もう一つ大切な意味がございます。インドの言葉で、ニルバーナ、迷いの火が吹き消された状態、お釈迦様の究極的救いの境地を表します。
涅槃といえば、かの西行法師は「願わくは花の頃にて春死なんその如月の望月のころ」という歌を残しております。歌人としての西行を思う時、如月は二月、望月は十五日を言いますから、旧暦のその日その頃咲いたであろう桜の花の下(もと)、暖かな春の日差しに包まれて終の旅立ちを迎えたいとの、行く先への安心(あんじん)を願う思いが見て取れます。しかしながら出家者としての西行を思う時、「死」という一文字の中に、つかもうとしてもつかみきれない救いの境地への心からなる憧憬、そして切実な希求までも描かれているように思えてなりません。道元禅師様のお言葉にも「生死すなわち涅槃と心得て生死として厭うべきもなく涅槃として願うべきもなし」と涅槃を意識する記述が見られます。人の生き死には一大事であり、すなわち生死の苦しみへの心の決着が禅いわんや仏教の教えそのものなのでしょう。西行は、あこがれとしての涅槃の中にその決着を見出そうとし、禅師様は生死そして涅槃をも越えたところとして「仏の方へ投げ入れて、仏の方より行われて」とその行く先をも明確に示されます。いずれにしましても、仏教にご縁を頂く私達です。偉大な先輩の残された 「教え」と言う名の命の繋がりを大切に、この身この心に真っ直ぐに頂きたいものでございます。
永平寺の宮崎禅師様は、「学ぶとは真似ぶこと、一生真似をすれば本物だ。」と仰います。何を真似るかと言えば、教えを真似る。教えとは只ひたすらに坐る事、坐禅の姿そのものに表れているようです。涅槃の月に臨み、大いに古を慕い真似び学びの心を養いたいものでございます。 |
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