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「身は花と共に落つれども、心は香りと共に飛ぶ」というお悟りの言葉があります。人の身体はいつか必ず滅します。人が滅する姿は、花が散る様子と同じで、いろは歌に見られる「いろはにほへとちりぬるを」はこの諸行無常の様子を表したものです。
「いろはにほへど」の「いろ」は、所謂仏教におけるの色(しき)、般若心経にある色即是空のシキですから、この世にあるすべての物は、「にほえど」つまり、美しい花が芳しい香りを漂わせるように、ありありとその姿を見せてはいるけれども、「ちりぬる」花がいつかはその姿を変えるように、人や目に見える物々も、また現象であっても全ては移り変わる。その状況、また様子を形容している訳です。
では、心はどうなのでしょう、唯物論者でなくとも物言わぬ仏に心は見えないと答えればそれで良いのでしょうか、いいえ勿論全ては移り変わるのですから心とて例外ではありません。只、方や「落ちてしまう」マイナス思考、一方「飛び立つ」のは何やら明るい志向性プラス思考と考えられます。
香りを、仏に供えるお香と見れば、心はお香を飲食として飛ぶ、飛ぶとはつまり往生する意味でしょう。そのように考える時、心はどこか知らぬ世界に飛んでしまうのではなく、私達がそもそもあったいのちが生まれた場所へ再び戻る。文字通り往き、生まれる往生するわけです。
また香を供えるという行いは、仏様へ心を供える事、信仰のあかしそのものでもあります。
仏様を信じるから香を手向ける、逆を言えば信じるという心のはたらきが、香を供える行い、つまり目に見える供養の形となるように、亡き人の心のはたらきもまた、私達の心を往生の地と見立て、邂逅の地、として安住するのでしょう。
法句経の中に、「善き人の香りは風にさからいつつもゆく、善き人の徳はすべての方に薫る」とあります。
無常の風にさらされながらも、仏の教えを信じ、真っ直ぐに心正した方の香り(おしえ)は決して消え去る事はない。只、ここに見える「すべての方」の仲間となるには、勿論それまで漂っていた自我という匂いを取り除いた私達自身の心の場所を用意できた方となるでしょう。
また一つには、善き人を覚者と信じ切りお任せすることで、いつかは「すべての方」の仲間に…。と願うのも選択肢の一つでしょうか。
「花が散る」という現象一つとっても、実はこの様に多様なメッセージを与えてくれるという事実を知らなくてはならないのでしょう。何やら思い違いをしている私達人間が見えてくるではありませんか、「大自然より生かされる私」というスタンスが、やがて戻る場所もまた現実として想定できるものでしょう。 |
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