六月の事を、水が無い月と書いて「水無月」と申します。丁度梅雨時期と言う事もあり、水が無いとは考えられないのですが、実は、無という字は、今で言う「〜の」に当たるという事で、水の月と言えば納得もできます。
 ところで、謂れはもう一つ、梅雨の雨が降り続き、いよいよ天の水がめも底を突き、水が無くなってしまった、というものです。先の説は実際的、現実的であり、こちらは絶対的な物への諦観した見方が感じられます。雨を降らせるのも、お日さまで照らすのも、所詮「お天気」と言います。天帝、天の帝の気分次第、また「天候」と言った時、この「候」の字は機嫌を伺う、待ち受けるという意味で、やはり受け身の言葉でしょう。
 いずれにしましても、私達の手の及ばぬ対象への、畏敬そしてお任せするしかない諦めが感じられるのです。
この時期、茶掛けには「山是山、水是水」と言う言葉が見られます。
「一雨千山を潤す」の禅語が示すように、一雨一雨が、山々の木々や、またあらゆるいのちへのはたらきかけが目覚めるのも今の季節、文字通り、「山は是山」千の山々は、その命の躍動を緑の深さに喜びとして表しているかのようです。
 そして、「水は是水」水の大切さは承知しているつもりでも、何日も雨の日が続けばうっとうしさを感じるのが私達人間です。
 ですが、山の潤いだけを喜ぶわけにはいかない現実がこの言葉に隠されているのではないでしょうか、「山は是山、水は是水」それぞれあってそれぞれが成り立つ。絶対的な自然への納得を促します。
 道元禅師様も仰います。「生死の中に仏あれば生死なし」生き死にの中に仏があれば生き死にそのものが無くなると言います。
 自然を認める考えは、人の生き死ににしても同じこと、仏とは自然のはからいをありのまま認める事、認めることが出来ればお悟りです。
お悟りとまではいかなくとも、認めようとすることで、私達の死の恐怖におののく心も少しは楽になるのではないでしょうか。