立つ神と坐る仏等という言い方をします。西洋と東洋、狩猟民族と採集民族の違いもありましょう。キリストと釈尊、それぞれの代表的なお姿は、十字架像、涅槃像でしょう。死期を迎えて立ち上がるキリスト、一方お釈迦様は地面に近いところに目線を落とします。山折哲雄氏は、「立ち姿の西洋人は常に外に向かって行動を起こそうとし、坐り姿の東洋人は静かに内側に向かって精神世界を開こうとする。つまり、坐る事は只体のポーズではなく、無限の内面を開拓しようとして、思索行為を伴う姿勢である」とその違いを説明します。また、中国の日本語文化学院院長の王勇教授は、「坐るという数千年前から東アジア世界に蓄積してきた尊い伝統文化を継承するために我々は時々坐る視点に立ち戻って、真正面から虚心に文化遺産と対話を行い、その真髄を新たな文化創造の糧にしなければならない。静かに腰をおろし、瞑想の世界に入り、ひたすら力を蓄え、知恵を絞り、内面世界を切り開いて文化を創出しなければならない」と力説します。
 ところでこの坐の字、人と人が土の上に尻をつけて対座する様を表す象形・会意文字だそうです。禅ではこの人の一方を自我、向き合う一人を自己と言います。自我は滅するもの、自己は本来の姿を見つめるもの。禅は禅那、静慮、つまり坐禅とは、対峙する感性と悟性を静かに見つめるという意味になります。
 坐る文化の継承者でいたい私です。学校での勉強も畳で受ければもっと集中できたのかもしれません。