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「コミュニケーション力(りょく)」という言葉が新聞や一部雑誌などで見かけるようになりました。かの「声に出して読みたい日本語」で有名な齋藤孝さんも同名の著書を出しておられますが、その売れ行きばかりが原因ではないようです。
コミュニケーションとは他者との関係性の事でしょうから、「若者の」であるとか「不足」等の前後にこの言葉を用いる事を見ても、問題視されている言葉であり、またその解決策としての啓蒙の匂いが感じられます。
齋藤氏曰く「コミュニケーションは、この世の中を生きていくための重要な手段であると同時に、生きる目的そのものである。」とその著書の中で述べます。また、大企業での面接の際採用の基準となるのは、学歴よりも周りとの関係を円滑にすすめる事ができるこの力を重視する傾向があるとある新聞に載っていた事を記憶しております。
ところで、お釈迦様の「縁起」という言葉も、判り易く言えば関係性の事でしょう。只それは、養ったり、高めたりするものではなく、もっと根本的な理(ことわり)としてのもの、釈尊の教えに従って自然の法(おしえ)を認識する重要性を確かにするものです。ですから勿論「〜力」と表現するものではなく、またあえて手段や目的という言葉を使うならば、確認する事が生きてゆく上でのすべての問題を解決する手段であり、生きている目的をこれほど明確にする言葉もないでしょう。
「食べる」という私達が生きてゆくのに必要なこの一点を考えてみてもその理由は明らかです。私達が生命を維持するのには、この「食べる」という行為が必要不可欠です。またそれには食べられるいのちとしての存在が必ずあるわけです。その犠牲の上に私たちのいのちが保たれている現実があります。そのいのちの関係性を認識してきたからこそ、「頂きます」「ごちそう様」「お陰様」という感謝の言葉が伝承されてきているのでしょう。この様に人間をはじめとするこの世のすべてのものは、繋がりあい(関係性)助け合っていると言う事です。繰り返しになりますが、この繋がりなしでは生きてゆく事さえできません。素晴らしい「いのちの言葉」が懐かしい響きと聞こえるようでは、やはりその認識力が落ちていると言えるのかもしれません。只、この力が落ちてしまえば、それはすでに人間として生きているとは言えないのではないでしょうか。お釈迦様がお悟りになったこの月、大自然とのコミュニケート「縁起」をあらためて考えて見たいものです。 |
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