年末恒例、今年を表す漢字に「愛」が選ばれました。「愛」と言えばキリスト教的?何しろ「愛の宗教」の一言で事足りる程ですから。
仏教では「渇愛」と言えば執着の代名詞、そしてまた「愛」は一般的に恋愛の愛、あくまで自分中心の愛で、情熱や陶酔を生じ、一歩間違えば激しい憎しみに転化する危うさがあるようです。
 また、仏教にも「慈愛」とか「顧愛」「愛語」という熟語がありますが、これらは、一切の条件がつかない慈悲の「愛」です。つまり、「私が」「誰に」「どれだけの」という条件を少しでも持てば、およそ慈悲の愛ではなくなってしまうものです。言い換えれば、手放しの「愛」無条件の「愛」が仏教で言う「慈愛」や「顧愛」「愛語」となるものでしょう。
「愛語と言うは、衆生を見るにまず慈愛の心をおこし顧愛の言語を施すなり」「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」何れも修証義の一節です。
善行のある人には、より精進あることを願い愛語を施す、善行無き人には咎めることなく憐れみの心で愛語を示す。
 その施す姿勢は、ちょうど母が自分の赤ちゃんを見るような気持ちを抱いて接する事が大切だとあります。そしてその心を起こす事が、「廻天の力」天下の情勢を動かすほどの力を持つ事を心して学ばなければならないとも…。
 また、原文の正法眼蔵菩提薩?四摂法には、「おほよそ暴悪の言語なきなり」と、顧愛の言語を施す為の更なる注意事項が示されます。
 とかく私達は、自分が正しいと思えば、また弱き者を助ける言葉であれば、強きものに噛み付く強い言葉を吐くことがあっても・・・。と思いがちです。しかし、道元禅師はそれは何事があっても絶対にあってはならないと仰います。
 「売り言葉に買い言葉」と言いますが、売り言葉がなければ買う事が無いと考えれば、できるだけ売り言葉に近づかない事。正法眼蔵随聞記の中に、「善者に親近すれば霧露の中に行くが如く、衣を湿ずと雖も…善人になるれば覚えざるに善人となるなり」とあります。善人に近づけば気がつかないうちに自分も善人になって行くもの、反対に悪人に近づけば言わずもがな。売り言葉に近づかないとは、決して勇気ある撤退と納得の上の消極性を示すのではありません。むしろ積極的に善縁に近づく努力こそが求められ、またその積極性により、おのずと売り言葉が近づかない「わたし」が出来上がるのではないでしょうか。
 悪い言葉をかけ続けた水の結晶は、乱れた形となり、良い言葉を与えた水は、均整のとれた形になるそうです。均整のとれた心作りを心掛けたいですね。