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福島・和歌山・宮崎、トップの不祥事はまるで芋蔓式、何れも「業者の選定は、天の声で決まった」となれば天の帝(みかど)も心外な話とさぞやご立腹でしょう。
ところでこの天、天命、天寿、天空などの熟語を見ますと、何れも動かしがたい対象といった雰囲気、また人知の及ばない有難さまでも感じるような、納得せざるを得ない一文字と言っても言い過ぎではないようです。只、納得の術に社会的な立場という特権を使えば、流石に天帝の堪忍袋の緒も切れるというものでしょう。「天に唾して己が面にかかる」という古事もありましたですね。
さて、今日、都道府県の長を「知事」と呼びますが、元を辿れば仏教用語、道元禅師典座教訓の中にも「仏家に本より六知事有り」とあります。知は、司るの意味があり、事は事務を言いますから、禅寺の諸事運営を任せられた六名の管理職といったところが元の意味となります。ついでに申しますと、六人のお役は夫々、都寺(つうす)寺務を司る役、監寺(かんす)庶務のまとめ役、副寺(ふうす)会計にあたる役、維那(いのう)修行僧の指導役、典座(てんぞ)修行僧の食事を司る役、直歳(しっすい)境内の修理や備品の管理役と、本来は禅寺の住職の下、円滑な運営を司るお役をいったものでした。また、運営や人事が滞りなく行われているかどうかのチェック体制として、人事行礼(にんじぎょうれい)という会議が定期的に行われ、住職へ的確に報告するシステムまでもが整っているものです。
談合のシステム化が成されていた両県です。六知事にあたる部課長クラスまでが逮捕されるお粗末さに「仏家には到底ふさわしくない知事」と言うほかはありません。
「人を愧づべくんば明眼(みょうげん)の人を愧づべし」天の声と言って憚らぬのであれば尚更のこと、鍍金ならぬ金無垢の天帝の目に愧じぬ政(まつりごと)を治めて頂きたいものです。 |
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