道元禅師が中国で修行をしている時のお話です。
 老僧の典座(お勝手のまかないの主任)に出会います。この老僧は実は長い修行を修め一山の住職までも務めた方でしたが、再度志を立て阿育王山の寺で典座のお役を任されております。禅師曰く「なぜ老僧のあなたが典座の職などしているのですか、坐禅をしたり、お経の研究をするとかでなくては意味がないのではありませんか?」
老僧答えるに「立派なお若い外国のお人、惜しい事にあなたはまだ修行や求道の何たるかを判っておられない、文字の何たるかも判ってはいないようだ。」禅師再度問うに「では仰る文字の道理、修行の道理について教えて頂きたいのです」老僧曰く「今あなたが質問したまさにその所を踏み外さないように通過しないと文字や弁道を知った人とは言えません」つまり、仏法を合理的に只、理屈だけで判ろうとするなら問題の要点とすれ違って何も得られません。問題と自分が一体となること、問いと自己とが一つになる事こそ文字を知り道を得た事になるという意味だと思います。更に後日、老典座と再会する事になります。そこで禅師は再度質問をします。「如何にあらんかこれ文字」典座曰く「一、二、三、四、五」「如何にあらんかこれ弁道」典座曰く「偏界かって隠さず」
 文字とは何から何まであらゆるものが文字であり、全てのところが弁道修行であって全てはありありとあらわれている」といったところでしょうか。文字であっても文字に捉われる事無く、また坐禅に充満された自己により、行住坐臥(日常の立ち居振る舞い)全てを弁道修行とするところに仏道の極意があるといったものかと思います。
 また同じく中国で修行している時に、別の典座和尚さんとの出会いがあります。夏の暑い日の事でした。お寺の仏殿の前で老典座さんが椎茸を干しております。焼け付くような陽射しの中、笠もかぶらずに額から汗が滴りいかにも苦しそうに見えました。禅師が「どうして下働きの人を使わないのですか」と問うと典座曰く「他は是吾にあらず」(人のやった事は私のやったことにはならない)と言います。禅師は感心しながらも「御老僧は仏法の教え通り真面目にお勤めで頭が下がる思いです。でも何もこのような暑い時になさらなくても良いのではありませんか」と言うと、典座曰く「更に何れの時をか待たん」(今この時を逃して何時する時がありますか)と答えたと言います。禅師は返す言葉もなく口を閉じるしかありませんでした。
禅師はこれらお二人の老典座との出会いにより、ご修行を長く修めた老僧だからこそ命を預かる大切なお役目典座を任せる事が出来る事、そしてその典座というお役目の大切さを知る事となります。正法眼蔵随聞記の中に「今、学道の人須らく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光速やかに移る、暫くも存ずる間に余時を管ずる事なかれ。只須らく道を学すべし」とあります。
 私達は、子供の手が離れたら、仕事が一段落ついたら、いわゆるタラレバ的に出来ない理由を繰り返しながら物事を先延ばししています。今しなければするときはないという寸陰を惜しむ気持ちがなければ何事も成就すること難し、「あのときにしておけば良かった」というよりは「あのときにしておいて良かった」と思える人生の歩みでありたいです。