今年の一文字が「命」に決まったとの事です。天皇家に親王がご誕生との事、新しい命を祝う意味合いが大きいのでしょう。ただ、今年の報道を振り返ってみますと、まるで人の命の重さが以前と比べて軽くなってしまったように錯覚してしまいそうな話題に、心が痛む一年だったような気がします。決して明るい命の話題だけではなかったことに、あらためてこの一文字の重さを感じております。
さて、この「命」、道元禅師様の目線で見るとどのように考えられるのか、お言葉の中に探って見たいと思います。
修証義の中に、「身すでに私にあらず、命は光陰に移されてしばらくも停めがたし、紅顔いずくへか去りにし尋ねんとするに蹤跡なし、つらつら観ずる所に往事の再び逢うべからざる事多し」とあります。
「身すでに私にあらず」自分の持ち物とばかり思っていたこの身が実は自分のものではなかった。なぜならば、「命は光陰に移されてしばらくも停めがたし」自分の自由になるものであったなら、私がもっとも輝いていた若かりし頃の自分でいられればとの願いも虚しく、現実はその思いとは関係なく、月日の経つにしたがってどんどん年をとっていく、一瞬たりともとどまってはくれない。「紅顔いずくへか去りにし尋ねんとするに蹤跡なし」あの若き日の自分はたしかにあったのに、どこに行ってしまったのだろうか、行き先を探しても跡形もない。「つらつら観ずる所に往事の再び逢うべからざる事多し」よくよく考えてみても往時の姿は二度と帰ってくるものではない。
 ここで、命が自分の物でない事実を知る事で、借り物の命を大切に使わせていただき、その時が来ればお返しするだけ、そのように考えれば無駄遣いなど決して出来ない大切な思いにつながるものでしょう。

閑話休題
 ただ、この文を見ると、何やら若いときだけが幸せで、年を重ねる事が辛く寂しい出来事のように書いてあるとも感じますが、実はそうではありません。命の積み重ね、命の変遷があるからこそ、その営みの中に菩提心との出会いがある。ここでこの菩提心とは、命を大切に思う心、私達坐禅の者にとっては「坐禅でもしてみようか」という仏の世界からの呼びかけに素直に応える心へと繋がって行くのではないでしょうか。
 そして、素直に応える仏心は、ただ若ければいいというものではなし、年をとってしまったから遅いというものではないとも考えられそうです。
 また「四十二章経」というお経の中に、仏とある沙門(出家者)との問答が載っております。
仏、沙門に問う「人命いくばくの間にか在る」。
応えて曰く「数日の間なり」。
仏曰く「汝まだ道を知らず」と。
また、一の沙門に問う「人命いくばくの間にか在る」。
応えて曰く「飲食のあひだなり」。
仏曰く「汝まだ道を知らず」と。
また、一の沙門に問う「人命いくばくの間にか在る」。
応えて曰く「呼吸の間なり」。
仏曰く「善いかな、汝、道を知れり」と。
 無常の中を生きる私達の生命が、一息一呼吸のなかにある事をこのお経は教えてくれております。
 禅師様はまた、「無常迅速、生死事大というなり、返す返すもこの道理を心に忘れずして、ただ今日今時ばかりと思ふて時光を失わず、学道に心をいるべきなり」とお示しです。
 今日今時、今この時がいかに大切であるのか、一瞬の中に永遠が入る真実(而今の現成)をお伝えです。
 一呼吸一呼吸を大切に、呼吸になり切る事が坐禅の本分です。その様に考えるとき、坐禅は命そのものと心の決着を見ることができそうです。一瞬の命を生きる坐禅です。来年も心して坐りたいものです。