今年の宮中歌会始のお題は「月」だそうです。
 「月」は誰にでも分け隔てなくその光を届けるところから、禅ではしばしばお悟りの様子に例えられます。そこでまず思い出されるのは道元禅師様の和歌集『傘松道詠』の中にある“濁りなき 心の水に 栖む月は 波もくだけて 光とぞなる”そして“しずかなる  心の中(うち)に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる”先のうたの詞書が「坐禅」後のうたが「坐禅工夫の意を詠ず」とあります。
 坐禅工夫とは、いろいろと心を砕き仏の示された教え坐禅に親しむ事を言います。心騒がず安らかに坐禅をしていると、天真に輝く月の光(お悟りの心)が心に住まいして遂にはその光そのものになってくる。
 また二つのうたに共通する「波もくだけて光とぞなる」とは、海面に映る月影は一つであっても、そこに砕ける飛沫、つまりあれこれと思案をめぐらして坐禅工夫する心のうちに、その境涯の深まりに応じた一筋の光、光明を映し出してくれるとの意を見ることができます。
 更にまた『正法眼蔵』現成公案の中に“人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなもので、その月は、ほんの小さな草の露にも宿れば一滴の水にも宿る。悟りが人をそこなわないのは、月が水をそこなわないのとおなじである”と。また“人の妄念が悟りを妨げないのは、あたかも露や一滴の水が天上の月を妨げないのと同様である”妄念の起滅する中に悟りの月影をそのまま映すというような事が示されております。どうでしょう、学道の人として大いに励まされるお言葉ではないでしょうか。
 ところで、達磨様から数えて八代目の禅師様に馬祖道一禅師様がおられます。最期の時をむかえようとする時、弟子より最後の教えを所望されます。応えて曰く「にちめんぶつ日面仏・がちめんぶつ月面仏」
『仏名経』の中に“日面仏の寿命は千八百歳、月面仏は一日一夜”とあるそうです。馬祖禅師は死に臨むにあたり、不老の身のまま、言えば毎晩死んでいるようなものとのお示しだったのでしょうか、命の長い仏、短い仏、命の長短はあるけれどもどちらも生を全うする仏として敬う、敬うとは、いのちを大切に生き切る行いにつながるものと思います。
 機根の大小深浅を超えて宿る仏の心、寿命の長短を超えた仏の命、仏の法(おしえ)の中で生かされているわが身を感じます。
歌のお題は変わっても、行き着く真理(おしえ)はただ一つ。改歳の時、新たな歳と同時に改めるべきものがありそうです。