−茶話会でのおはなしから−
 涅槃という言葉は、二つの意味で使われます。煩悩の火が吹き消された安らぎの状態、そして般涅槃(はつねはん)と言ってお釈迦様の死を表します。
 涅槃会とは、2390回忌のご法事というよりは、生身のお釈迦様が入滅されてもなお連綿と死に絶えずに続いているものへの祝福を込めた行事という認識を持ちたいものです。
 その様に考える時、涅槃会は、お釈迦様の変わらぬ教えとしてそのご遺言を思い起こすことに意義を見出す行事とも言えるわけです。
 さて、二月の坐禅会では、そのご遺言である遺教経八大人覚(ゆいきょうぎょうはちだいにんがく)を朝のおつとめで唱え、また提唱にて学びました。そしてまた、摂心では最も古いお釈迦様の言葉とされるお経、法句経(ほくきょう)に親しみました。
 ところで、人の死としての涅槃についても、お釈迦様は「死とは悪病を除くがごとし」とお示しになります。死は決して恐怖なのではなく、生老病死の苦海にあえぐ生身の身体や、迷いの根源であるこの身この体から解き放たれることとして受け止められます。
 近年、デスエデュケーション(死への準備教育)であるとかタナトロジー(死学)などという学問も確立されつつあります。死を真っ直ぐに見つめ直す事は、実は私達が如何に生きるべきかを問い直す事に繋がるものと思います。
 『日本一短い祈りの言葉』という本の中に、次のような詩があります。
お父さんがいなくなってから皆集まります
気付かせてくれてありがとう。
皆そう思っています。ごめんなさい。(四十五歳 女性)
 また、紅白で話題になった“千の風になって”という歌も死者から生きるものへのメッセージという詠み人知らずの古い歌詞ながら、今までにはない視点に共感された方が多かったゆえ大ヒットにつながったのではないでしょうか。
 死という観点から物事を観る事で、何気なく過ごす一日一瞬が如何に大切であるか、また限られた時間に出会う人とのふれあいも、実にかけがえのない意味を持っていることに気付かされます。
 お釈迦様の入滅やご遺言としてのお示しを、私達一人一人が自分自身の生き方として受け取る、そして日々の生活に反映させる形で受け止めることが大切なのではないでしょうか。