−彼岸に因み−坐禅会でのお話からU
 彼岸の六日目は禅定修行の日です。禅とは、心を整えるという意味、定は文字通り一つに定めるという事です。心を一つに定め外の出来事に心を振り回されないようにする修行、坐禅やヨーガなどはその典型的な形です。 
ところで、人生修養の書として江戸時代から親しまれる『菜根譚』に次のようにあります。
一、 静かなところで考えが澄みきっていれば、心の本当の姿を見ることができる。
一、 閑中に気持ちがゆったりと落ち着いていれば心の本当のはたらきを知ることができる。
一、 淡々として平らかで心がわだかまりなく、穏やかであれば心の本当の味わいが得られる。

 静かなとき、無事なとき、淡々としているとき、心の真実の姿を知ることができる。この反対に騒がしいとき、忙しいとき、心が揺れ動いているときは本当の心を悟ることはできないということでしょう。

 “竹影階ちくえいかいはらうもちり動かず、月輪がちりん沼を穿うがつも水にあとなし。水流、急に任せて 境、常に静かなり。花落つることしきりなりといえども、意、おのずから間なり。”

 竹の影がゆらいで階を掃っているが塵は全く動く様子も無い。月は底に届くほど沼を照らしているが水面に何の痕跡も残さない。水の流れがいかに急であっても、辺りの様子は何の影響も受けないかのごとく静まりかえっている。花はしきりに散り急いでいても眺める心はまことにのどかであると。

 また、禅定を例えた詩にこのようにあります。
    “寒苦に鍛えた梅は 風雪に耐えて良く香る
    温室に育った菊は 淡い霜にも萎えしぼむ
    甘えになれて生きるものは おのれにすらうち克てない”

 沼を穿つ月輪を眺め、急な水の流れを感じながら禅定の世界を垣間見る。そのご縁があってはじめてのどかな心境へといざなわれるのでしょうか。
  竹がさらさらと風に揺れ、月影がゆらゆらと水面を遊び、水が高所より低所へとよどみなく流れる。そして花は見るものの惜しむ心などお構いなし、風任せに散ってゆく。
 大自然の様相から自分の生き方へのメッセージを感じることもまた禅定からのはたらきかけとも言えそうです。