同時ではなく、同事と書くところが仏教的。他人を救うために仏教者のなすべき行いの一つで、字を見てある程度想像がつくと思いますが相手と同じ事を行うと言う意味です。
同事について道元禅師は次のように語っています。
「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。」(『正法眼蔵』 四摂法)
不違(ふい)とは違(たが)わないということです。他人と自分との間に垣根を作らないという意味でしょう。
 ところで、仏教には因陀羅網の喩えのお話があります。『華厳経』にある喩えの一つで、因陀羅とは、梵語インドラの音写で帝釈天。因陀羅網は、この帝釈天宮にはりめぐらされている網のことで、それぞれ結び目に宝石がつけられ反映し合っている、宝石を私たち人間一人ひとりに喩え、個と全体が不離一体の関係にあることを示すものでしょう。
 この様に考えれば、私たちの小さな人間関係もまた大きな世界の環境問題も、そこに解決の道筋が見えてくるようです。
 ところで先日お目にかかった布教師さんのお話の中に面白い例えがありましたのでここにご紹介致します。
 「仏教では自分をゼロにすることで世の中が見えると言います。相手を1、自分を0と数字で仮定した時に、1÷0と考えてみます。電卓をたたくとE、つまりエラーとでます。答えようがないという意味です。では、0に近い0.1で割りますと10、0.01で割れば100というように徐々に数は大きくなって行きます。つまり1÷0とは無限大に近い大きさである事が判ります。」
自分をゼロにする事で、限りなく大きな救いの力となる例えと考えては如何でしょう。
 「人の為と書いて偽りとよむんだな」相田みつをさんの詩です。
また、「ああしてやった こうしてやったで地獄行き」という言葉があるそうです。
ちょっとドキッとしてしまうフレーズですが、「して頂いた、させて頂いた」と考えるところに同事行のヒントがありそうです。