今から400年程前(慶長年間)の東根郷(保原地方)は、広い原野が広がり所々に谷地があるような地形であった。そこに自然流水利用の田圃が点在していたが周囲の山々が低い為に水量が乏しく、特に晴天が続くと干ばつに悩まされる事が多々あった。そこで、その「農業用水」確保の為に堰を築き川から水をひく事業に尽力したのが、渡邊新左衛門と梁川の堀江与五衛門であった。
 当初、阿武隈川の水を東根の平野に潅水するべく箱崎に取入口を設け、堰堤を築こうとしたが二度にわたって失敗した。度々の失敗にもめげず私財を投げ打っての努力の甲斐あって、慶長9年3月、およそ5年の歳月を費やし完成。名称を「砂子堰」とした。
 水路の開発によって東根郷の水田は、その後干ばつからの被害にも遭わず、原野だった所も次第に良田となり、著しい収穫の増大を見るに到った。それからも現状に甘んじることなく、より一層の便を図った改良を重ねた結果、その恩恵は「三十四町歩にわたった」と言われるほどに拡大した。この業績が認められ、渡邊は東根上郷(仁井田を除く保原、掛田地方)、堀江は東根下郷(仁井田を含む梁川地方)の大肝煎おおきもいり(名主の総取締まり)となり、信達地方の四郡奉行(東根二人、小手郷一人、信夫一人)に任ぜられた。また、その後の渡邊家代々の末裔もそれぞれ当地方の役人を務め、新田開発事業のみならず殖産興業、市場開設などにも尽力し、結果町並みも次第に整い市場も大いに繁栄していったという。
 このように史実を考証してみると、渡邊家は、現在ある保原町の発展の礎を築いた大功労者の一族であったということが判る。
 渡邊家の墓所は、本堂西側の場所に往時の様子が偲ばれる堂々とした面持ちで現在も変わらぬ姿で建っている。また十四代当主は、千葉県浦安市に転居されているが、檀那寺は移さず毎年かかさず墓参に訪れている。


 適山は寛政八年(1796)、弟蘭斎は同十年(1798)当町市柳に生まれる。生家は農業の他に酒造業を営み、裕福な家であった。
 同族に熊坂台州、磐谷と代々続いた高名な儒学者がいたこともあり、兄弟は早くから漢籍、詩文を学んだと思われる。また、当時の信達地方は養蚕が盛んで、商業が発達、町にも活気がありそれと同時に学問、文化が大変盛んであったことも適山のような画家を生んだ一つの要因と考えられる。
 適山の本格的な絵の修業は、梁川地方が松前藩領であった時、代官として赴任していた蠣崎波響かきざきはきょうへの弟子入りから始まる。波響が北海道へ帰るまでの十年間、波響は波玉と言う名で我が子のように可愛がられ、絵の手ほどきだけではなく漢籍詩文の指導も受け、この時期勉強もかなり進んだと思われる。文政五年波響が北海道に帰ることになり、勧められるままに京都の浦上春琴に師事、画風も四条円山派から南画に転向、七、八年の勉強の後九州に渡り、田能村竹田、長崎春徳寺住職鉄翁に会い更に研鑚をつむ。
 この頃、郷里保原に残して来た妻が突然死去、急遽帰郷、菩提を弔う。十年ほど自分の画室神艸しんそう(しんそう)堂にて絵を書いて暮らしていた。その後松前藩にお抱え絵師として奉職、嘉永五年には兄の縁で弟の蘭斎が藩医として仕える事となる。   
 安政二年梁川が再び松前領となり、適山が勘定方として着任、その後江戸詰めになるなど役人としての生活をおくる事となる。同時に江戸では書画会などを催した。今日現存する多くの優れた作品はこの時期に書かれたものである。
 最晩年、北海道に戻ることになるが、患っていた中風がもとかどうかは定かではないが、元治元年(1864)九月十二日六十九歳で没した。遺骨は福山専念寺に葬られ、法名は通神院釈適山居士。
また記録によると没後一周忌追福の為、当仙林寺を会場に「書画しょが詩歌しか連誹茶れんぴさ挿花さしはな将棋しょうぎ雅会みやびのかい」と題する盛大な会が催されたと有る。
 適山亡き後、その画風を継ぐ門人には、菅原白龍、関根範山、西山雲洞、菊田松翁、園部誠斎、今村三峰、吾妻春渓、赤井夏門、佐藤公斎、僧殿山、秋葉晴巖、金子竹汀、琴田適窓、蒲生衝水などが挙げられるが、特に菅原白龍は明治南画を背負って立つほどの画家となり、師を凌ぐほどの活躍をみせた。
境内には合作の碑が三基ある (写真をクリックすると大きく表示します)
  「竹石図碑」
適山の石に蘭斎の風竹を刻し藤原弘庵の七絶と安積艮斎の五絶の画賛
  「蘭石図碑」
適山の岩に蘭斎の春蘭を刻し適山の画賛
  「梅月図碑」
適山の老梅に蘭斎の月を刻し広橋大納言光成卿の和歌

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★碑に自分の絵を刻したものは大変珍しいと言われている。これらの画碑は適山没後、蘭斎が建てたものとされているが、正確な年代という事になると判然としない。

←★参考:適山追福忌
適山一周忌の追福として弟 蘭斎によって追悼会が仙林寺を会場に催された。書画、詩歌、連誹・・・とあるところを見ると、あらゆる芸術の競演といった趣か?」


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 町内には、村岡八幡宮境内にも芭蕉の句碑があるが、そちらは揮毫が白河城主の庶子で俳人の「秋風」、建立が明治初期に衆議院議員として活躍した山戸田の八島成正の実父で本名成美、俳号「其堂きどう」と判っているが、当山の碑には何も記されて居らず、由緒など全く調べるすべが無い。しかしながら、前述八幡宮の句碑縁起を頼りに推測すると、おそらくは芭蕉亡き後、翁の正風を慕う門人が、地域の主な神社仏閣などに建立せしめたものであろう。只その門弟が、実際に芭蕉の訓えを受けた者か、私淑して門人と言ったのかは定かではない。

 七宮氏は戦国時代の武将で、伊達政宗とも度々酒席を共にするほどの付き合いがあったと伊達氏の史書にもみられる。かなりの剣豪であったらしく、その流派を深浅夢想流といい、門弟も数百人いた。おそらくは伊達政宗にも、剣の使い手として客分で迎えられていたのではないかと推測される。この碑は、当時逗留していた保原の遠藤久盛家の子孫が弘化二年に建てた。