
前述したように、千の風の原詩は、作者不明、Mary Frye作の二説があります。後者として考えた場合、友人が故郷を遠く離れた地で両親の死去を知り、失意の日々をおくる中、慰めとして書かれたという事実を踏まえなければならないと思います。
すでに、お墓に納骨を済ませた事実、実際問題として戦争によって墓参に訪れる事ができない友人の心を慰めてあげようとすれば、自ずと詩の意味にも納得がいくものでしょう。「亡くなった両親の心がおられるのは、決してお墓だけではないのですよ」と心の落ち着き処を大自然に委ねたと考えればいかがでしょう。

「死から生を考える」人は、大切な方との別れを経験することによって、その中に何らかの気付きや、心の成長を促されるものと思います。
この詩が語り継がれているイギリスの墓では、墓石に「イン・メモリー・オブ・○○」と刻まれ、死者が居る場所ではなく、偲ぶ場所になっているケースも多いということです。(2007.5.28読売新聞)
また、若山牧水の詩に次のようにあります。
垣根の外の水の音 耳には慣れて忘れはするが
忘れた音の聞こえるように 昔の母が憶われる
「あって当たり前、居て当たり前」普段気にすることもなかった親との縁や繋がりが、ふとした情景や、聞きなれた音楽といった亡き人の思い出とともに蘇ってくるものです。仏教は、ではそこからどうするかを問いかけます。
誕生の時には、あなたは泣き 全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き あなたはよろこびにあふれる
かくのごとく生きることだ(チベット死者の書より)
秋の光、冬のきらめく雪、夜の星が、そして千の風が、人の死を介して私たちに何を語りかけているのかを考える時、そこにお墓という対象を故人を偲ぶ場所として据える事に何の違和感もないものと思いますが…。