
仏教では、死を「瞬間的な死」と「肉体が壊れること」の二つと捉えております。(テーラワーダ スマナサーラ長老)「瞬間的な死」とは、変化し続けている身体と心、無常としての命を生きる観点から見た死の事。「人間の身体は、およそ60兆個の細胞から構成され、白血球はおよそ一日足らずの寿命で、赤血球は四ヶ月の寿命で死んで行き、新しいものと入れ替わる。私たちの体内では、毎日『死』が繰り返されている。」(大田保世著「生死観入門」より)以上、医学的にも現世的輪廻観は納得のいく説明があるようです。
ただ、今私たちが問題とするのは、後者「肉体が壊れること」の死なのだと思います。つまり、死後の輪廻観という事になります。
ところで、釈尊の弟子、智慧第一とされる舎利弗尊者(サーリプッタ)への問いかけに「人が亡くなるときに最後に離れるものは何か」とあります。それに対して「エネルギーと熱と意識だ」また熱とエネルギーは、炎の熱と明るさのように相互に依存しているとも答えています。
釈尊も、死に関しては無記≠ニされていますが、パーリ経典には「死」を、寿命(続くエネルギー)熱、識(物事を認識すること)と説明しているそうです。中でも認識すると言うエネルギーは巨大で、エネルギー不滅の法則からすれば、消えたように見えてもどこかで何かに転換する。これを輪廻とするとあります。また、認識とは、心のはたらきです。華厳経には三界唯一心≠ニあり、道元禅師の和歌にも
此心(このこころ)天(あま)つ虚(そら)にも花ぞなほ
三世(みよ)の仏にたてまつらなん
とあります。
仏教は、やはり何よりも心を大切にする、心のあり方に気をつける大事を説くものです。
死して土に帰る≠ネどと言いますが、土に帰るのは、自分の身体、遺骨といったこれが自分だと思い込んでいる存在。心つまり認識は物質とは別の流れの中で輪廻してゆく、生身としての身体は死しても認識は転換してまた何かを認識して行く(転生)。
道元禅師の『学道用心集』に無常を観ずる時、吾我の心、生ぜず≠ニあります。
また、テーラワーダ仏教でも死に向かう心の正しいあり方を次のように示します。「死を目の前の現実としたとき、自分の肉体は如何にしても壊れて行きます。そんな時、今まで抱いてきた憎しみや恨みをすっかりと捨て去り、消し去ってみんな幸せでありますように、有難うございます≠ニいう慈悲の気分をつくる。仏典では、そうすることで確実に梵天に生まれ変わると言っています」(玄侑宗久・Aスマナサーラ著「仏弟子の世間話」より)
旅立つ故人は、慈悲の気分を培う為に生前より仏教の教えを学び正しい生き方をしなくてはいけない。そして残る者たちは、お墓にそして流れゆく自然の中にその気分を味わいつつ、学びを深めてゆければ、まさしく仏教で言う「回向」が生き生きと現前するのではないでしょうか。
また、大乗仏教的に言っても、お墓とは、亡くなった人に仏塔建立の功徳をささげ、その功徳を回向するために建立するもの。お墓に参り線香や花を供えて供養し、その功徳を故人に振り向け、この世での家族として回向してあげることは大事なことでしょう。