17日、天気予報など何のその、前日から降り始めた雨を止ませたのは天帝の気分かはたまた観音様のご利益か。
 さて、先日新聞を読んでおりましたら、「故郷墓参りで窃盗男が自首」という記事を目にしました。この泥棒さん、警察の捜査から逃れるため遠く京都に隠れ住んで居たとの事ですが、最近になって会津坂下町在住の唯一の親戚であるいとこに連絡を取ろうとした際、いとこが死亡していた事を知り墓参りをする為帰省、墓前で自分の犯行を悔い自首したとあります。この事件、別のスポーツ紙の見出しでは「神に導かれ?教会の現金盗んだ男が自首」。実は、盗みをはたらいた先が会津若松市内の教会だったのだそうです。そこで、前述のような見出しとなったものです。
 ここで、考えたいのが、何が男をそうさせたのかと言う事です。自首への改心は、一方が「墓参り」と言う事で仏様を媒(なかだち)にした懺悔(さんげ)、そして「神に導かれ」とくれば神様の思し召しと言う事でしょう。
 いずれにしても、目には見えないけれども何らかの大きな力により導かれた心がそうさせたと言えそうです。
 観音経の中に、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」とあります。「高い山から突き落とされても、火の中に落とされても、荒海で遭難しそうになっても、観音様の名を称えれば救われる」という意味です。ところで、この観音経の読み方には事釈と理釈があります。書いてあることを額面通り事実と受け取るのが、事釈。火の中や荒海を人生の苦しみ悲しみ、艱難辛苦と理知的に考えるのが理釈です。
 泥棒さんのお話に戻りますが、神様の元に盗みに入るのですからよほどの事情あってのことだと思います。そうなる前におそらくは曲がった事釈で神頼み、「神も仏もあったものか」と恨みもしたものでしょう。その結果の現実が目の前の盗み≠ニいう行為に走らせたのかもしれません。ただ、改心させたのも同じ神仏、この時理釈として、仏様を拝むと言うことは、愚痴る事でもお願い事をする事でもない、実は自分を拝む事なんだと気付いたのだろうと思います。
自首した泥棒さん、今頃は、本当の意味で仏様や神様に救われるとはどういうことなのか、懺悔の中でかみしめているのかもしれません。