| 最低でも年二回の開催を!という前回の約束はかろうじて守られました。十八日研修会第二回目開催です。当初前回の資料をもとに「葬儀に関する勉強会」とする予定でしたが、大幅に予定を変更、今話題の『千の風になって』を取り上げる事となりました。ブームなどというレベルを超え今や社会現象と言えるほど共感を得た曲の、その魅力はどこにあるのか、「故人がお墓にいない」とする歌詞に本当にお坊さんは困っているのか?、仏教的な輪廻観、転生観、あるいはアニミズム(自然精霊崇拝)などをあわせた考察を試みました。 参加者17名、今回は特に梁川町より興国寺の副住職さんや、当町真言宗長谷寺副住職さんを交えより幅のある話し合いとなりました。 全世界的に共感を得たこの歌詞ですが、その要因として考えられるのは、当初誰に対して捧げられた詩なのか全く判らないとされていた神秘性、そして何よりも死者から生者へのメッセージという今までにない形をとったところにあるような気がします。そしてまた故人となった死者が住む場所を今までのお墓に限定する事無く、何処にでも誰にでも感じる事のできる風≠竍光≠フような大自然としたところに曖昧ではあるけれども安堵感や安心感をもたらしたものと思います。 ところで、最近になってこの作詞者が明らかになったとする説が出て参りました。友人が故郷を遠く離れた地で親の死を知り、ナチスドイツからの亡命者という立場からどうしても墓参に訪れる事ができない、失意の日々を送る友人を何とか癒してあげられないものか、そのような状況が生み出したという背景もまた説として浮上しております。 多くの方がこの曲で救われているという現実は現実として成立の背景もまた事実として受け止めなければならないものでしょう。ここで考えたいのは友人をどうしても救いたかったという思いの強さにより創作された詩としてみれば、「お墓の前にいない、そこに眠ってはいない」という歌詞の中に、限定されたその場所だけにいるわけではない、経典にも「識(こころのはたらき)は消えたように見えても必ず何かに転換するこれを輪廻とする」とあります。お墓を否定するところに、大自然という存在が印象づけられ、また逆説的にお墓という存在が浮かび上がってくる事実もあります。身近な方を亡くした喪失感からの立ち直り、また癒しとしてこれだけの影響力があるという事実を踏まえれば、教義を持ち出して云々することが果たしてどうなのか、今回の学習では概ね肯定的に捉えたいそのような余韻を残しながら散会となりました。 |
