十三日の迎え盆、恒例“施食会(せじきえ)”が修行されました。世話人の皆様はじめ参拝の方々が多数訪れ、厳かな法会となりました。ただ、暑さのせいにするわけにはいきませんが、お札の誤配でご迷惑をおかけました。お詫び申し上げます。
十四、十五日は新盆の精霊をご供養に伺う“棚経”です。住職は遠方のお檀家担当、副住職は町内をスクーターで、裕好さんは四輪駆動車を駆って郊外へと、「師走って本当は八月じゃないの?」と勘違いしそうな二日間でした。
また、お盆期間中の境内の様子はと言いますと、さしずめ“仙林寺銀座”十二日が日曜日と言う事もあり、混雑も人も一日分前倒しの様相でした。観音堂では、季節限定“きまぐれ茶屋”がオープンするも、囲炉裏の風情は酷暑にそぐわず茶所は縁側へと移動です。
無人・麦茶・紙コップ?がよろしいようで・・・。 |
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施食会でのお話
本日はお盆の入りです。この“お盆”とは古いインドの言葉でウランバーナを中国で漢字にあて盂蘭盆、お盆としたと聞いております。また、この言葉には逆さ吊りという意味があると言いますが、逆しまな見方、見解とも考えられそうです。仏教で言う誤った見方とは勿論、お釈迦さまの教えを自分勝手に自分の良い様に解釈するという事です。
盂蘭盆経というお経にあるお話ですが、お釈迦さまの有名なお弟子様に目蓮尊者が居られます。そのお母さんが死後に餓鬼道に落ちて苦しみます。目蓮さんが亡き母に水や食べ物を供えるとそれが火になって食べる事ができないのです。このお話も、目連さんが幼い頃、母親がわが子可愛さのあまり、周りの飢えた子供たちへの施しを怠った母の行いに由来するものです。まさに逆しまな考えによる報いとも言うべきお話ではないでしょうか。
八月十五日、あらゆる命のご縁に食べ物や飲み物を布施するご供養をすることで、母も目連さんも救われた古事があります。本日の施食会(せじきえ)はこのような謂れを踏まえた大切な行事です。
食育の大切さが叫ばれる時代です。食べ物が此処にいたる成り立ちや、食べ方を学ぶ大切さは勿論ですが、今ある私の命が多くの生き物の命を頂いた上で成り立っていること、呼吸や水を飲む事でさえ他の命を犠牲にしなければこの命を保つ事ができません。
そのように考えるとき、私だけの命なんだというようなおごった考えは持てないものと思います。
「先祖の血みんな集めて子が生まれ」という川柳がありましたが、過去の多くの命に供養する事で、感謝の気持ちを新たにするものと思います。感謝の気持ちを持つことで、今のこの時を生きる生き方が如何にあるべきかを学べるものと思います。そのようなお気持ちで本日のご法要にお臨み頂ければ、それはもう計り知れない功徳が頂けるものと存じます。 |
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