九月には河北新報の取材がありましたが、今回は全国紙の朝日新聞です。前回同様「取材はちょっと」と遠慮気味の裕好さんです。「お話だけでも」とのお電話に気を許したのが間違い?の元、茶飲み話で終わる事はなかったようです。ところで取材の記者さんはたまたま裕好さんと年が一緒、多少の違いはあっても辿ってきた生活の形や時代感覚は共通するところも多く、出家した動機や思いは伝わったものと私も感じておりましたが、しかしやはりそこには微妙なズレがあったことは否めません。
人としての生き方、物ではなく正しい心こそが大切で、道行きに迷う方々へ一つの示唆を提案できればとの思いで取材を受け入れた訳ですが、その真意が伝わったかどうかは甚だ疑問であります。
裕好さん自身、特別な人、特別な生活をしている人と括られてしまっては何にもなりません。特別ではなくこれがむしろ自然な生き方なんだと思っていただけたならお受けした甲斐があったというものなのですが・・・。 |
|
|
−変わった生き方ではないつもり− (大越裕好)
新聞記事になるなんて言う事は、良くない事をしたときか、よほど変わった事をした時と長年思っていた。(今も思っている)
それは、北風の応援もあり、枯葉が境内を楽しくカシャカシャ・カリカリ・コトコトと楽しく舞い踊っている時に取材の電話が鳴った。電話の先は朝日新聞社の記者と名乗られたので只ただ驚く。
「何で?」という気持ちが頭の中をぐるぐる回り、悪い事?変わった事?どちらかと考えてみたが、どちらにも該当しない。
「変わった生き方ではないので記事になる事では有りません」と断ると、「話だけでもしてみたい」との話で、結局来寺となった。
何度話しても、仏道を目指した劇的な出来事は何も無いのだから、説明のしようも無い。
自然に、時の流れと共に、気がついたら仏道に身を置いていたのが現実だから、どう考えても理由らしい理由は見あたらない。しいて言えば、本当のユタカさってなんだろう?と考えた事がそれに該当するのかなと無理して理由を考えながら話をするが上手く言葉に出ない。(自分でも分からないのだから言葉にならないのは当然だし、聞いている方はもっと分からないだろうと思いつつ)
・・・確かにこの間、科学も発達し物質も豊富になったのは事実。物が豊かになり様々なものを手に入れることが出来れば幸せになれると思っていたし、事実そうなってきた。しかし今では物が豊富になり、文明も発達してきたのに、心は本当に豊かになってきたのだろうか?と考えざるを得ない状況におかれている昨今。
出家修行もまだ始まったばかりだが、身の回りの物が少なければ少ないなりに物にこだわる必要は無いし、心配も少なくなると言う事にあらためて気づかされた。
今は、お釈迦様が説かれた「我欲」から離れる事とはこういうことなのかと勝手に思い込んでいる。ピンからキリまでと言う言葉が有るが、いつまでも物にこだわってばかりいてはキリが無いと思う。質素でも良い!そう思うと、その上に対するこだわりが大きくならないので、あれこれ考える必要もその分少ない、考える事も少ないから気持ちは楽になる・・・(多分)
新聞記事は、私の歩んでいる道が殊更変わった生き方を選んだような印象で書かれていなくもないので、ふとJARO(ジャロ)が頭の中をよぎった。
でも、もう活字になってしまった事。
仏道に身をゆだね、心豊かに生きたいと思う事がそんなに注目される事とは考えてもいない。今までもこれからも普通に生きていくことが伝わっているのであれば止むを得ないとも思っている。
これからも、大自然の中で与えられた命を大事にし普通に生き続けられたら・・・。 |
|
|